風薫る5月、新緑が美しい季節となりました。
若葉が輝く頃、いかがお過ごしでしょうか?
少しづつ暑くなってきましたので熱中症対策を忘れずに。
さて、新しい箕面ショールームにて
TOTOリモデルフェアの開催が6月の28日29日に開催されます。
・開催日時
2025年6月28日(土)、2025年6月29日(日) 10:00 ~ 17:00
・ご来場いただいた方にサイコロチャレンジ!
茨木市に誕生したGRAVITATE OSAKA(グラビテートオオサカ)一日券をはじめ、たくさんのご来場特典をご用意(※1家族1回となります)
会場の箕面ショールームは箕面市役所近くにお引っ越しとなりました。
箕面市箕面4丁目8-64(大型駐車場あり)
※会場をお間違えの無いよう気をつけてお越しください。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。
2025年5月16日金曜日
2025年3月3日月曜日
春のTOTOリモデルフェア開催 2025年3月1日~3月2日
3月1日の土曜日と2日の日曜日、TOTO箕面ショールームで春のリフォーム相談会、『リモデルフェア』を開催いたしました。
土曜日は、晴天で暖かく4月のような陽気でしたので、たくさんのお客様にお越しいただき、とてもうれしく思います。
お客様は最新の設備機器をご覧になって、素材の進化や形状の工夫でお掃除がしやすくなったことや、機能の進歩でスマホと連動できることなどに驚いてらっしゃいました。
コロナ禍の前に新しくなさった方も、あれからもう6年。短い間のようですが、設備機器の性能や機能の進歩は大きなものがございます。
ご来場者様に差しあげたお饅頭が、美味だったとわざわざ電話でご連絡をいただいたりで、いたってうれしく思います。
今後とも大阪ガス風呂ショップ神崎(株)をご贔屓ください。
2025年1月17日金曜日
震度4に見舞われた日から30年目に寄せて
そのとき突き上げるように揺れにたたき起こされました。
大きな揺れが一通り止んだあとに起きると、家の中は本や書類はもとより多くのモノが散乱し、通り道さえなくなりました。
後に阪神・淡路大震災と呼ばれる地震が起きたときです。
西南公民館は、避難所にかわりました。
当社社屋に面する国道171号線は、それからまもなく大事態に陥ります。
道路に自動車が集まりすぎて交通が滞ってしまったのが理由です。
渋滞はその後1か月ほど続いたでしょうか。
いまの報道を見聞すると地震の被害は、神戸を中心にした阪神地域で起きたか出来事に思うかもしれません。
しかしこの箕面市でも家屋の倒壊が8件あり、死者さえ出たのです。
箕面市の震度は4であったと公式記録には載っていますが、体感はそれよりずっと大きな印象でした。
自宅に被害が及ばなかった社員は誰も居ませんでした。
社員の中には被災地に親族が住んでいたため、その救出に向かう者もいました。
多くの社員が出勤さえできなかったのですが、それでも比較的近い所に住まう十名ほどは勤務につきました。たとえ午後になろうともです。
当時の事務所は。普段なら業務が始まると、多くの電話が社外からかかるため喧騒に変わるのですが、その日は無闇に静かでした。
電話が鳴らなかったのです。
電話回線が混雑したので固定電話は使い物にならなかず、社外からの電話が繋がらなかったためです。
当時、当社で使っていた携帯電話の回線数は、ただの一つ。その日からしばらくの期間は、一つの携帯電話だけで外部ととれる手段でした。
仕事にならない日々は1か月ほど続いたような気がします。
いまの光景からは想像しづらいかと思うでしょうが、その困難を乗り越え当社は今日に至ります。
社員のうちいまや大多数は、その日より後に入社した人です。全社員のおよそ2割は生まれてさえいません。
それでも当時に在籍していた社員・役員のうち、いまも9名が在籍していることに、僕は感謝しています。
測ることができない困難は、今後いくつも訪れると思いますが、あの困難を思い起こせば、乗り越えられるはずだと考えるようにしています。
大きな揺れが一通り止んだあとに起きると、家の中は本や書類はもとより多くのモノが散乱し、通り道さえなくなりました。
後に阪神・淡路大震災と呼ばれる地震が起きたときです。
西南公民館は、避難所にかわりました。
当社社屋に面する国道171号線は、それからまもなく大事態に陥ります。
道路に自動車が集まりすぎて交通が滞ってしまったのが理由です。
渋滞はその後1か月ほど続いたでしょうか。
いまの報道を見聞すると地震の被害は、神戸を中心にした阪神地域で起きたか出来事に思うかもしれません。
しかしこの箕面市でも家屋の倒壊が8件あり、死者さえ出たのです。
箕面市の震度は4であったと公式記録には載っていますが、体感はそれよりずっと大きな印象でした。
自宅に被害が及ばなかった社員は誰も居ませんでした。
社員の中には被災地に親族が住んでいたため、その救出に向かう者もいました。
多くの社員が出勤さえできなかったのですが、それでも比較的近い所に住まう十名ほどは勤務につきました。たとえ午後になろうともです。
当時の事務所は。普段なら業務が始まると、多くの電話が社外からかかるため喧騒に変わるのですが、その日は無闇に静かでした。
電話が鳴らなかったのです。
電話回線が混雑したので固定電話は使い物にならなかず、社外からの電話が繋がらなかったためです。
当時、当社で使っていた携帯電話の回線数は、ただの一つ。その日からしばらくの期間は、一つの携帯電話だけで外部ととれる手段でした。
仕事にならない日々は1か月ほど続いたような気がします。
いまの光景からは想像しづらいかと思うでしょうが、その困難を乗り越え当社は今日に至ります。
社員のうちいまや大多数は、その日より後に入社した人です。全社員のおよそ2割は生まれてさえいません。
それでも当時に在籍していた社員・役員のうち、いまも9名が在籍していることに、僕は感謝しています。
測ることができない困難は、今後いくつも訪れると思いますが、あの困難を思い起こせば、乗り越えられるはずだと考えるようにしています。
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